昨日から調子がよろしくない。
食欲もなく、本も手につかない。

昨日は、大井町に出かけてみた。
二週間前、かわいい大型のカントリードールを見たヤワタヤに行ってみた。
まだ3体、残っていた。前に来たときは、店じゅうに20体は飾ってあったから、ずいぶん売れた様子。
みな着ている服がちがうので、残っているのはイマイチなやつかな…?でも、やはり、かわいい。
しかし、気分が沈んでいて、消費活動をする気になれない。
いま買わなかったら、もう品切だろう。でも、こんなアンハッピーな気持ちで無理に買ったら、お人形さんもふしあわせだと思って、買わなかった。
またね、おにんぎょうさん。。。

ついでに大井町の巨大ブックオフへ。
岩波少年文庫のプーさん横丁が200円。これだけ買って帰ろうと思ったら、4人組みの迫力主婦軍団がウワーッと押しかけてきて、去った後、ウソのようにプーさん横丁だけがなくなっていた。ヘコむなあ。

とにかく沈んでいると決断ということができないので、しばらく所在なく店内をウロウロしていたが、あきらめて帰ってきた。

午後7時ごろ疲れて就寝。夜中に目覚める。部屋から逃げ出したい気分、12時過ぎ、しかたなく大学に行ってみる。
なぜか大学で井口研の新M1と遭遇、おどろいたが、1時間ばかり話をして、少し気がまぎれた。

今日は、緑が丘図書館に、頼んでいた本が来ていた。
・リチャード・ブラウン『テクストとしての社会』(紀伊國屋書店)
重要そうな本。
有機体的、機械論的メタファーによる社会像からの離脱と、テクストのメタファーによる新たな社会像の呈示、だって。
でもテクスト論的メタファーって、コンピューターとネットワークのメタファーの興隆にともなって早晩マイナーなものになるんじゃないかしら。

それとの関連で、パソコンのユーザーインターフェースがテキストベースからGUIに変わったことの意義は大きい。
上記の本の副題は「ポストモダンの社会像」だ。
よくポストモダン社会は多元的だと言われるが、その反作用のようにして、イマジネールな単純さ・全体の見通しの良さへの欲望も生ずる。
そしてその需要に応じて、複雑なシステムは、「ユーザーフレンドリー」なインターフェースを提供するわけだ。
たとえばパソコンはデスクトップ・メタファーを提供し、八千代銀行はポチャッコを、青森銀行はキキララをイメージ・キャラクターとして採用する。

すると、ポストモダン社会が複雑な多文脈的社会だとして、それを理解するのにテキスト・メタファーが有効だとしても、ポストモダン社会の通俗的自己了解は、ビジュアルなGUIメタファーが優勢となる可能性がある。そしてそれは非ポストモダン的であり、むしろモダンな意味論への欲望に応えたものである。
つまり、ポストモダン的な象徴界+モダンの想像界による意味論、というねじれた関係が現われつつあるのであり、そこでITメタファーはテクスト・メタファーと対比して、かえって復古的・守旧的な意味論を提供しているのではないか。

いやな世の中だ。


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